2018-04-17 第196回国会 参議院 国土交通委員会 第10号
江戸時代に栄えた環濠という堀で囲まれました堺環濠都市北部地区、こちらの方を視察をさせていただきました。 この地区は第二次世界大戦の戦火からも免れまして、古い町家が二百五十棟以上残っていました。オレンジ色の区画が町家であります。古いものでは築四百年というような古い建築物もあり、市によって貴重な文化財として保存の取組が進められていました。
江戸時代に栄えた環濠という堀で囲まれました堺環濠都市北部地区、こちらの方を視察をさせていただきました。 この地区は第二次世界大戦の戦火からも免れまして、古い町家が二百五十棟以上残っていました。オレンジ色の区画が町家であります。古いものでは築四百年というような古い建築物もあり、市によって貴重な文化財として保存の取組が進められていました。
当時、一番最初に赴任されていた出川さんという方が、NHKの放送を通して、縄文から弥生、それから大和に至るまでの環濠集落を紹介していただきました。そのことによって、歴史的な文化遺産が残ったわけです。私は、こういうものをNHKは大事にしていただきたいというふうに思います。 ただ、全てがいいというふうに言うわけにはいきません。子会社との関係、経営の透明性をどう確保していくのか。
木造の、補助金もなかった、あるいは都市計画もなかった、そこを、環濠都市をつくって、今や観光のメッカにもなりつつある。これなんかは、個人の集団が自治でつくってきた、それがもう既に私は公共財になっておると思うんですね。 そういう意味において、公共事業は全て税金でやるものかというと、そうでもないと思うんですね。民間も含めて経済、社会、これだけ高度化しているわけですから、知恵を出し合ってやっていく。
少し余談になるかもしれませんが、先般、私、今井町へ行かせていただきまして……(発言する者あり)ええ、陸の今井、海の堺というふうに言って、環濠都市なんですけれども。
私は大阪の堺なんですけれども、海の堺、陸の今井町と言いまして、環濠都市なんですね、両方とも。私の堺も環濠都市ですし、今井町もあの奈良盆地の中の、飛鳥地方の橿原市の環濠の町、行かせていただきまして、本当に感動いたしました。 中世の時代からの家並みをきちんと保存されていらっしゃいまして、今もちっちゃな環濠が残っております。
近世の環濠都市なんですね。海の堺、陸の今井と、こう言われました。海の堺は大臣、北側大臣の地元でございます。ちょっと信長さんと折り合いが悪かったり、それから戦災を受けたりして、今はまあ恐らく当時の面影はほとんどないんだろうと思うんですね。陸の今井の方は、当時大和の富をすべて集めるというぐらい発展した寺内町なんですね。
○国務大臣(北側一雄君) 是非、陸の環濠の今井町に私も近いですので、自宅から。一度行かしていただきたいと思います。 我が国の戦後は、本当に急速な経済の発展、また急速な都市化というものが進んでまいりました。
また、私の奈良県の橿原市に環濠村で有名な今井町というのがございます。ここは同時に、江戸時代の建物が残っているところでございます。多くの大名が泊まったりした家もそのまま残っている、非常に歴史的建物の多いところでございますが、この今井町も歴史的建造物群保存地域、地区などの制度を活用して町並み保存を図りました。
これまでの発掘調査の結果からしますと、弥生時代後期を、今から約千八百年前と言われておりますが、中心とする広い範囲にわたる大集落跡でございまして、山陰地方を中心に独特な発達を見せる四隅突出墓や環濠、多数の掘っ立て柱建物跡、または竪穴式住居跡、大型建物跡等が一体として良好に保存されているものでございます。
それは、重要遺構十二カ所のうち、洞ノ原地区の四隅突出型墳丘墓群と環濠、松尾頭地区の首長などの住居跡の遺跡四カ所、約六・五ヘクタールを残すというものであります。 あくまでゴルフ場開発にこだわる県の姿勢に多くの批判が上がっておりますが、県の案は実質的に文化財の破壊にほかならないと思うのですが、これについても文化庁のお考えをお聞きしたいと思います。
それと対照的に、橿原市の駅のある、八木と申しますが、そこに、歩いて十分ぐらいのところに実は今井町という、これまた、陸の今井、海の堺、こう言われたような自治都市が、環濠都市がそのまま残っているのです。
実は、私の地元に今井町という環濠都市が残っております。これは、堺の方は跡形もなく消えているわけなんですが、近世非常に商業が栄えたところでございまして、そのときにみずからつくった都市が、まだそのまま残っているのですね。なかなか風格のあるすばらしい町なんですが、それも、その当時の商人たちがみずから町づくりを全部やったわけですね。
ここは弥生時代の環濠集落跡で、朝鮮半島で発達した米づくり文化を取り入れた村が国の中核集落として発展していく姿をたどることができます。現在、広大な歴史公園を建設中でございました。 次に、有明海に面した鹿島市の浜漁港において漁港修築事業を視察いたしました。この地域では、漁業集落と漁港が川で分断されており、漁業活動に不便を来しております。
○吉井(英)委員 ここは五年前に史跡指定をして、全面買い上げをやり、歴史公園として整備が始まり、第一次調査として二重堀の環濠部の発掘調査が行われてきたわけですね。そして今回は二次調査ということになるわけですが、竪穴式石室の一部のみがやられたわけですね。
神埼町、三田川町及び東脊振村に位置する約四十ヘクタールの同遺跡は、最大規模の弥生時代の環濠集落跡、巨大な項丘墓、大規模な甕棺墓地等から成っており、いわゆる耶馬台国をほうふつさせるものとして人々の関心を呼んでおります。現在、地元の手で物見やぐらと高床倉庫、竪穴住居が仮復元され、展示室が設置されていますが、佐賀県及び地元の各自治体は、吉野ケ里遺跡の国営公園化を強く要望しておりました。
吉野ケ里遺跡は全国最大規模の環濠集落でありまして、幻の邪馬台国の研究にも重要な遺跡でありますし、古代の歴史へのロマンを誘い、また歴史的にも非常に価値があるものと思われるわけでございます。発見されましてから一年半で約三百六十万人の方が見学に訪れたということでございます。
当遺跡の発掘調査は昭和六十一年から進められ、耶馬台国をも連想させる、四十ヘクタールという全国最大規模の弥生時代の環濠集落の構造などが明らかにされております。私どもは、物見やぐら、たて穴住居などが復元整備された広大な遺跡の全貌と、かめ棺等の出土品が公開されている展示室を視察いたしました。
今お話がございましたように、吉野ケ里遺跡は、近畿ではこれまで見ることのできなかったような弥生時代の中後期の大環濠集落であります。しかも、そこには宮室、楼観、城柵、邸閣といった当時の倭人の世界をほうふつとさせるものが発掘されておりますし、日本における国の成り立ちの状況を明らかにすることのできる具体的な史料をたくさん持って今に姿を あらわしておるわけでございます。
先生ただいま御指摘のとおり、ことしの初めに佐賀県において吉野ケ里遺跡が発見されたわけでございますけれども、吉野ケ里遺跡からは弥生時代の大変大規模な、環濠集落と言われてございますけれども、大変大規模な環濠集落あるいはまた墳丘墓、当時の基制、お基のあり方を示す墳丘墓、そういった遺構とか、あるいはまた、報道もされてございましたが有柄の銅剣を初めといたしまして貴重な遺物が数多く顕出されたわけでございます。
「魏志倭人伝」で話題になった環濠集落跡などは、この決断で保存されることになり、工業団地計画は三分の二に縮小された。 しかし、考古学専門家たちによれば、この広さでもなお不十分のようだ。工場用地には、奈良時代の官道、駅家、郡衙らしい跡が残っている。
○石橋国務大臣 佐賀県当局とのすり合わせも十分やっていかねばなりませんが、とにかく私ども聞く範囲においては、環濠集落でありますとか墳丘墓などの遺構でありますとかあるいは有柄銅剣、鏡、管玉など大変なものが出土されていると伺っているわけであります。
御指摘の、このたび佐賀県において発見されましたいわゆる吉野ケ里遺跡でございますが、大変貴重な遺跡であると認識しておるわけでございますけれども、この吉野ケ里遺跡の中でとりわけ重要な要素となっておりますのがいわゆる弥生時代の環濠集落の部分でございます。
これは当初から、施行主体でございます日本住宅公団が関係当局と十分相談を進めながら調査をやっているところでございまして、お述べになりました方形周溝墓群、環濠集落跡、こういうものは、非常に価値のある文化財と聞いておりますけれども、この問題につきましては横浜市の港北ニュータウン文化財問題協議会、ここが取り上げて種々協議いたしておるわけでございます。
○政府委員(安達健二君) この環濠跡なり、環濠の集落跡なり、方形周溝墓というような重要部分につきましては、これを保存するにつきましての財政措置等も考えなければならないだろうと思うわけでございまして、それから周辺ということでございますが、この間の土地につきましては、従来住宅を建てるということで予定しておったものを、これを変えようというようなお話しもございますので、したがいまして、それはやはり公団のほうでその
○政府委員(安達健二君) それで方形周溝墓といたしましては、ほかにもございますが、方形周溝墓とそれから環濠集落、つまり集落とがワンセットになっておるというのはこれが初めてでございます。従来非常にまれであるということで、その価値が高いと、こういうふうに考えられるわけでございます。